静岡新聞コラム 『窓辺』連載内容


「集団の遊びと独り遊び」

僕は旧浜北市小松(現浜松市浜北区小松)で、昭和23年に生まれた。
当時は敗戦後の事もあり、食糧事情も悪く、父母は僕を長屋住まいの家の柱に、犬をつないでおく具合で長い帯で縛り、ミシンを踏めば、ゾウキンでも何でも多少の金になった時代であったそうだ。
僕が生まれた時、未熟児で、母はちょっとしか母乳がでないので、父が農家に毎日、ヤギの乳をもらいに行って飲ませたら、何とか元気な子供になっていたらしく、僕の絵に、角のはえた幻獣がよく登場するのが、うなずける。
父がある日、帳面と王様クレヨン12色入りを買ってくれて、僕は赤青黄緑などの色に感動し、寝床の中でも絵を描いて、鼻の穴にそのクレヨンを突っ込んだりして、クレヨンの独特な臭いをかぎながら幸福に寝入っていた。
近所の子供たちと野外でどろんこになって散々、遊べたのは、車がほとんど道を通らなかったからで、独りになると絵描きに熱中していた。
やがて幼稚園(当時は親が全員働いていたので保育所のような)に、田舎道を道草しながら歩いて通るようになり、園でも昼寝や昼ご飯、小川で遊んだりのほかは、得意な絵を描くと、保母先生たちが壁に張ってくれた。
僕の幼少時代は、集団の独り遊び、両方が出来た事は素晴らしい事だったと思う。
集団の遊びは、ちゃんとガキ大将がいて、声をかけると十数人、すぐさま集まり、馬跳び、Sダン、マルケン、シカクケン、かくれんぼなど、スケールが大きかったと思う。


「日乃出座」

浜松市浜北区小松に、今は無き日乃出座という映画館があった。
大正時代からあったという歌舞伎座のような館は、テレビが無い時代には村民にとって唯一の娯楽の場で、僕の幼いころ、おやじに連れられて、ディズニーのピーターパンを見た。
総天然色のアニメーションは、初めて見る色彩がスクリーンからあふれ出て、ショックであった。
ある日、村の四つ角で、長い白ヒゲのおじさんがタイコをたたき、背中に日乃出座で上映予定のポスターをさげて、大きな声で口上をのべていた。それから、僕の中で、映画はオモシロイの芽が生まれた。
小学生になると、友達と、日乃出座入り口の窓口で3本立て30円を払い、丹下左膳や笛吹童子、紅孔雀のチャンバラ時代劇など喜んで見に行くようになった。
日乃出座の内部は、スクリーンに向かって木の長椅子が4列位、ズラッと並び、まわりは、二階建てのタタミのさじきがあった。
夕方になると、村の衆は、日乃出座に座布団を持って出掛け、夏は二階の木戸がすべて開け放し、星空が見えた。
鞍馬天狗が、悪党につかまった姫を、ダダダと助けに行く場面では、客の全員が興奮して大拍手がおこり、第一部終幕で客たちは、あー残念、もっと見たいのにと、ため息をもらした。
映画が終わると、座長が舞台に上がり、次週予告編の宣伝口上をのべて、村の衆は、中村錦乃助はカッコイイねとか、いいや、東千代之助のほうがイイとか、しゃべりながら家路に着いた。
そして、村にテレビが登場するまで、日乃出座は生きていた。


「兵六さ」

浜松市浜北区小松に、今は無き山八という松林の高さ5メートル位の山があって、そこは、チャンバラゴッコをして遊ぶ絶好の場であった。
その隣に、兵六池という直径10メートル位の池があって、その中に、5メートル位のねじれた大木が浮かんでいて、それに僕等は乗って、つりあいをとって遊んでいると、「おい兵六さがきたぞ」と畑のむこうを見ると、浮浪者仙人のような兵六さが、長い杖を持って、縄文小屋に入っていくのが見えた。
小松と西ヶ崎の境の畑に、兵六さが勝手に建ててしまったといわれている小屋に、兵六さが外出中、友人と二人で恐る恐る竹や古材で編んだ戸を開けて入った事がある。
三畳位の踏み固めた地面の中心に炉があって、小さなガタピンの戸棚にはボロボロの本や一升ビンが置いてあり、もう僕等は心臓がドッキンドッキンで、もし兵六さに見つかったら必ず、杖でなぐり殺されると思って、畑をころげるように走って家に帰り、その夜は、浜六小屋の事を想い出して眠れなかった。
春になると、村の橋の所で、兵六さが、長い杖を空に振り回して、「小松の奴等ーまいたってーまいたってー」と、声高らかに叫んでいた。
片手にはカラの一升ビンを布袋に入れて、大きな屋敷につかつかと入って行って、物乞いをしていたようだ。
山猿のように野や畑で遊んでいた僕等は、恐る恐る兵六さの演説がおもしろくて、田んぼの土手にふせて見学していた。
うわさによると、兵六さは一匹狼の学者だったそうで、僕等にとって孤高のアウトローであった。


「遠州のからっ風」

冬になると、浜松地方は赤石山脈から吹き下ろす遠州のからっ風が吹いて、僕の浜名小学校時代は、刈り入れが済んだ田んぼで野球をみんなでやっていると、田舎道を追い風にまくしたてられて、自転車に乗った村のおばさんが「ヒェー助けてー」といって、田んぼの中に自転車ごと落ちたりしていた。
向かい風の時は、歩いていても自転車に乗っていても、深い海の中を進んでいるようだった。
この風のせいで、遠州人はおっちょこちょいで、浅くてやたら広い?特に僕の場合、ド近眼だったせいもあって、誇大妄狂的性格が形成されたと思う。
ドン・キホーテが巨大な風車を怪物と思い込んで突進したのにも似ていて、ボックイに古バケツが被さっているのを、変な生き物だと思い込んで小石をなげたりしていた。
浜松の凧揚げ祭りはその風をちゃっかり利用した盛大な祭りで、僕等もそれをマネして、正月の田んぼで、村の凧揚げ名人に習って、手作りの凧を揚げて遊んだ。
僕は浜松西高へ行く頃、狭い住宅事情もあって、押し入れの中に自分の部屋を作った。
当時、アメリカの人工衛星が、静岡県を宇宙から撮ったカラー写真が正月の新聞に載り、浜名湖や浜松市を確認、小松はどこら辺かなーと見ると、針の先位で、僕の存在はとなると、全く怪しいゴミにもならない事にガクゼントとして、押し入れの中にスポットライト、真空管ラジオ、ポータブルレコードプレイヤー、絵の具等を入れ、人工衛星の操縦席のつもりで乗船し意気揚々たる高校時代が始まったのです。


レオナルド・コージ 
    「巴里帰国展」

押し入れ型人工衛星の中で、友人に借りたビートルズ、ジャズ、シャンソン、広沢虎造などのレコードを聞きながら、詩や絵を描き、浜松西高に入るとすぐさま美術部に入部、猛烈な勢いで絵を描き出した。
授業中も教科書などの文字のすきまに描き、スケッチブックを小型に切ってホッチキスで止め、それにビッチリ絵を描き、マンガ本を発行、といっても、後ろの席の奴にそっと渡し、クラス中回し読みして、放課後、このクラスにマンガのコージはいるか?(同じクラスにもう一人パチンココージがいた)と言って、他のクラスの奴が返しに来た。そうして、愛読者がふえてきて、「もう少しエロッチックなのをたのむぜ」という奴もいた。
美術部で油絵を描く時、卒業していった先輩が残していったキャンバスに描き、画材は値段が高いので、菓子箱のふたなどにも盛んに描いた。だから、黒い学生服のそでは油絵の具があちこちにこびりつき、髪の毛はボロゾーキンのようで、遠州鉄道の赤電に乗ると、近くに人が寄って来なかった。
ある夜、人工衛星の中でひらめいて、パリのエッフェル塔やカフェがあるオムレツの臭いが流れる雰囲気の絵を三十枚ほど、一気に描き、無届けで学校の廊下の壁に貼り出し、「レオナルド・コージ巴里帰国展」を突如開催した。(この時フジタツグジがレオナルドと名乗っていたのをちょうだいした)これはみんなに大いにうけて、放送部が取材に来た。「いつ鈴木君はパリに行ったんですか?」「えーと、押し入れ型人工衛星に乗って行ったように記憶しています」などと、ウソぶいていた。
ある日、友達の家で、白黒テレビを見ていると、「イギリス、リバプールからすごい四人組登場。その名はビートルズ!ジャーン!」が流れて、友達のオッカサンに「あんたの髪型に、この衆等の方がキレイだけど、そっくりだやー」と言われてしまった。


「コノ答案は絵ダーッ」

浜松西高時代、ビートルズより不潔な長髪の僕は、当時ゲッター先生
(下田代博道先生)のクラスで、職員会議中、他の先生から「君のクラスの鈴木のあの髪は何とかならんかね?」という事になり、ゲッター先生は「あいつは現在絵描きの道を邁進中で、今強制的に髪を切らせたら、ライオンのたて髪、ネコのヒゲを切ってしまうのに等しいから、私の顔に免じて欲しい」と言ってくれてそうだ。それを友人から聞いて、僕は大感動し、放課後、床屋に行って丸坊主にして、次の朝学校に行くと、友達等に「ヒェーッ」と言われてしまったが、教室内で、ゲッター先生はチラッと僕の坊主頭を見て、何も言わなかった。
秋の文化祭が近づいて来て、生徒会長が僕に会いに来て、「鈴木君、今度の文化祭の大きな立て看板の絵を、お願いしたい。ついては、西高の僕達の友情と連携、そして明るい未来をテーマに、思う存分描いて欲しい」との事。
僕は快く引き受け、四畳位のベニヤ板に、両手を前にだし、舌ベロをふるわせてニヤけているロレロレ人(僕が発明した人種)の若者達を水性ペイントで描き切った。完成したその看板見て、生徒会長は青ざめて、無言であった。
ある日、にがてな数学の授業が終わる頃、何とか先生が、この前のテストの答案の結果を皆に配り、最後に「鈴木、後で職員室へ」と言うので、おそるおそる行くと、先生の両手に僕の答案12点が、ぶるぶるふるえていて、先生の額の青スジもピクピクふるえていて、「コノ答案は絵ダーッ」と激怒の御様子。
僕としては、必死に解答したつもりが、これには本当にマイった。だけど、この先生は僕の絵を認めてくれた第一人者なのかも知れない、と最近、想うようになったから不思議です。


「あーゆう人になっちゃいけないよ」

浜松西高時代。今は日常の言葉になってしまったイベントやハプニングだが、ニューヨークの前衛アーティスト達の「日常を打ち破る行動」が当時の美術雑誌に紹介され、これに感動した僕等もすぐさま行動を開始した。
浜松市内の松菱デパートの日曜大工売り場へ友人と行き、黄色のペンキ大缶をもとめて、ある日の深夜、浜松市役所アスファルト広場で同志数名と、ぼろいバイオリンやたて笛を吹きながら、僕は巨大な直径六メートル位の三日月を描いた。次の日、学校の授業が終わり、市役所の現場に急行すると、巨大な月は見事に消されていて、付近の下水に黄色い水が溜まっていた。
また、オヤジの使い古しの革カバンをもらって仮面を作り、放課後、絵の具がこびり付いた学生服のまま、革靴を脱いでハダシでKEEP、COOLなどの文字とロレロレ人を描いた看板を背負い、例のお面を被り、市内の歩道を歩いていると、向こうからやって来た親子とすれちがう際、その親父は息子に「あーゆう人になっちゃいけないよ」と言っていたのを、今でも思い出す。
当時、実存主義の哲学に熱中する友人から借りた本に、サルトルの「嘔吐」という小説があって、読めば読むほど謎は深まるばかりで、要は「吐く事」だなと思って、松菱デパート脇の、たまに猫の死体などが浮かぶドブ川の橋の上から、酒も飲めないのに、吐くイベントを行い、その際、友人から借りたテープレコーダーにドブ川の流れを録音、教室内でその音を流していると、友達等は「おっ、谷川岳から流れる清い水の感じ」とか言ってくれて、頼もしい限りであった。


「私はカルチャーショックです!」

次の日、店にあの堀内さんから電話が入った。「平凡パンチ」女性版創刊号(1968年ごろ、現「アンアン」)に僕の絵を載せたいという僕は飛び上がって喜んだ。
板前の正夫叔父さんにオートバイで送ってもらって、赤坂の店を出て以降、日本列島、ヨーロッパ、アジア、メキシコと放浪を重ねるうち色々な境遇、ユニークな才能あふれる人々との出会いがあり、僕の絵(イラストレーション)が雑誌や絵本に載る機会が増えてきた。
東京・三鷹のチンドン小屋に住んで、せっせと絵を描いてもたまに電話局から「料金不払いで一時止めさせていただきます」のころだ。静岡県庁から手紙が来て、「明日の静岡県を考える八丈島一周一泊の船上セミナー」でぜひ講演して下さいという。僕は勇んでアロハ、Gパン姿で静岡駅に降りると、役所の方が新幹線の階段をじっと見つめている。近づいて「あのお、スズキです」と言うと驚いた様子で、ベンツに乗せられ、日本平の絶景の料亭で知事と四人位で昼食となった。
ビールをいただきながら、目の前の知事に「あのー、どちらの大学を出られたんですか?」と聞くと、にっこりほほ笑んで「東大です」。とのお答え。お隣の女性の副知事に聞くと「東大です」。そのまたお隣の方も「東大です」。「スズキさんはどちらの?」との知事の問いに、僕は思わず「天麩羅大学です」と言ってしまった。
豪華な三井商船が清水港を出港し、二百人ほどの校長、教頭先生達の前で、僕は怪しげな講演をした。揺れる場内は爆笑の渦であった。その夜の船上パーティーの際、ある先生に「あなたみたいな無学の方が現在大活躍されていて、私はカルチャーショックです」と言われてしまった。